時計の針が深夜0時をまわる頃、彼女は唐突に僕に向かって抱きしめて欲しいと言った。
「どうして?」と僕は訊いた。
「怖いの」と彼女は言った。
「いったい何が怖いんだい?」
FMラジオは『俺らにできること』を流していた。
「本当にこのまま行くのか、心配なのよ。誰もこのままで良いなんて思っていないのよ。昨年の最終節のことを忘れたのかしら」
僕は昨年の最終節について、頭を巡らせた。あの黄色いユニホームのクラブとの試合だ。
直近まで泥沼にはまっていたにも関わらず監督が変わったことにより活気を取り戻し、
10連勝を期待して浮かれていた我々に4つの得点を叩き込んだ、あのクラブとの試合だ。
あの時、呆然としたことだけは覚えている。
「あれはメッセージだったのよ」
「メッセージ?」僕は訊いた。
「そうよ」彼女は頷いた。
「来年はもっと力をつけないとダメなんだっていうメッセージよ」
「それは戦力の補強が必要だということなのかな」
「当たり前でしょ?」彼女は言った。「このままじゃ荒れ狂い暴れまわれないわ」
『俺らにできること』が終わると次に『ムーブメンタル』の控えめな音が流れ始めた。
何度か聴いたことがあるが、その曲にどんなメッセージが込められているのか、僕にはさっぱりわからなかった。
曲が終わらないうちに彼女はラジオのスイッチをオフにした。
沈黙が落ちた。音のない世界へ突然放り込まれたような気がした。
「スタメンが揃えばいいってものじゃないのよ」彼女は言った。彼女は酔っているかあるいは腹を立てているのかと思ったが、
そもそも彼女は酒を飲まないし、彼女の表情にも怒りの色は見えなかった。
「それはつまり」僕はおそるおそる口を開いた。
「高校生がセンター試験にシャープペンシルを数本持って行くように、備えが必要だということなのかな」
彼女は首をすくめた。「つまらない例えね」
「悪いね」と僕は言った。
彼女はため息を一つついて言った。
「そのつまらない例えで言うのであれば」彼女はそこで言葉を切って、スイッチをオフにしたばかりのポケットラジオを見つめた。
僕は彼女の言葉を待った。
「シャープペンシルの他に鉛筆も必要だということよ」
再び沈黙が落ちた。
「わかりにくい例えだね」僕は笑った。
「あなたのせいよ」彼女が言った。
「やれやれ」と僕は言った。